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あさま山荘事件
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あさま山荘事件 警察署 に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路 封鎖 と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉 検問 実施、 国鉄 及び 私鉄 各線の 駅 での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。. 当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が 山岳ベース事件 で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった /45532.txt 。.
浅間山荘事件とは – コトバンク – 映画『突入せよ!あさま山荘事件』を動画配信サービスで視聴
あさま山荘事件と山岳ベース(アジト)事件は、共産主義革命 財産の私有を否定し、生産手段などを共有することで貧富の差のない社会を実現するための運動)を目指した新左翼組織(日本共産党などの「既成左翼」と対比させた用語)「連合赤軍」が~72年に起こした事件である。. 特集 事件がわかる 社会に衝撃を与えた重大事件・事故の特集ページです。発生当時の状況や事件の背景、社会への影響について、当時の新聞紙面や写真を使って詳しく解説しています。警察の隠語を紹介した用語集も併せてご覧下さい。.
事件がわかる あさま山荘事件・山岳ベース事件 斎藤文太郎 社会 事件・事故・裁判. 事件概要 2. 連合赤軍の結成 3. 山荘への立てこもり 4. 山岳ベース事件の発覚 6. 連合赤軍メンバーのその後 7. ノンポリ、三無主義… 8. 坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の運転免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという [22] [9] 。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった [22] 。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内に バリケード を築いていった [25] 。.
すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの 森恒夫 は、 渋川署 員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している [9] 。. 坂口は「ここで徹底抗戦する。1日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、1日でも長く抗戦を続けることに意義がある」と発言し、坂東・吉野もこれに同意した [24] 。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下 [24] 。実際は長く抗戦するためだったという [22] 。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。. 犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には 20日分の食糧 が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。.
当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が 山岳ベース事件 で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった [22] 。. 人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという [22] 。. さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという [22] 。.
正午ごろ、画家の男と SBC の記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした [28] 。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃 [22] 。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される [28] 。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した) [28] 。 1人目の犠牲者 。.
この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否 [22] [注釈 8] 。. さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという [22] 。. 坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念 [22] [9] 。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された [32] 。.
夕方、 山岳ベース事件 の犠牲者 寺岡恒一 の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ [28] 。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという [22] 。.
夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判 [22] [注釈 12] 。. 犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」 [22] 。.
内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた [22] [34] 。.
やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明 [33] 。. その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという [22] 。. 全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、 警察庁 では 警備局 ・ 刑事局 ・全国の各 管区警察局 などが陣頭指揮を執り 都道府県警察 と総合調整を図って 捜査 していた。.
そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の 警察署 に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路 封鎖 と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉 検問 実施、 国鉄 及び 私鉄 各線の 駅 での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。. また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに 後藤田正晴 警察庁長官 の指示により、 人質の無事救出 (警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り 逮捕 ・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」ことを大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・ 警視庁 を中心とする 指揮 幕僚 団の派遣を決定する。後藤田は20日朝に開かれた記者会見で「なんとかしてxx(人質女性)さんを無事救出したいという気持ちでいっぱいである。この事件が凶悪犯罪であることは間違いないが、彼ら(連合赤軍)はもともとインテリなのだから、彼らの心に訴えて慎重な作戦を取り、できるだけ血を見ないで解決したい」と述べている [35] 。.
警察庁からは、長野県警察 本部長 ・ 野中庸 (いさお) 警視監 と同格の 丸山昂 (こう)警視監(警備局 参事官 )を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に 佐々淳行 警視正 (警備局付兼警務局 監察官 )、警備局調査課の菊岡平八郎警視正( 理事官 ・広報担当)、 情報通信局 の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、 関東管区警察局 からも公安部長樋口俊長警視長など数人が派遣されている。. 警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため 石川三郎 警視正 ( 警視庁警備部 付)、広報課長 國松孝次 警視、梅澤 参事官 (健康管理本部・ 医学博士 )など他にも多数の応援が向かった。. 後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の 宇田川信一 警視(警備第一課主席 管理官 ・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。. 第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、 警視庁予備隊 時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、 防弾 対策・ 放水 攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視 、人質の救助、及び現場での受傷者の 救助 の任務のため 第七機動隊レンジャー部隊 (副隊長・西田時男 警部 指揮)も追加派遣されている。.
警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は後方支援的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元 縄張り 意識が強く、 戦術 ・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、 無線 装置の電波系統の切り替えや山荘への 偵察 実施の方法など、 作戦 の指揮系統についても議論が紛糾した。.
結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が 狙撃 され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から 拳銃 で撃たれ( 2月24日 )、死亡( 3月1日 )したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。. 包囲のなか、警察側は山荘への 送電の停止 、 騒音 や 放水 、 催涙ガス弾 を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、 特型警備車 を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立てこもっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、 寺岡恒一 の両親 [注釈 15] )を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日に リチャード・ニクソン アメリカ合衆国大統領 が 中華人民共和国 を 訪問 しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。初めは冷ややかに母親たちの説得を聞いていた機動隊員らも、子を思う親の愛情の深さに涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した [28] 。.
長時間の検討の結果、 クレーン車 に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた 鉄球 )で山荘の 壁 と 屋根 を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の 設計図 などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ 階段 とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され 崖 の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった [28] 。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と 報道協定 を締結している。.
次に3階正面の各 銃眼 を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃眼を壁ごと破壊するに留まった。. 鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車の エンジン が水をかぶったため」とされているが、これは現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、 バッテリ・ターミナル を蹴飛ばしたため」であるといわれる [注釈 16] 。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。.
当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している [37] 。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。. ただしこの故障説については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、 アメリカ軍 の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても 専用の車両 ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌 [38] および自動車雑誌 [39] で明かしている。.
突入した二機四 中隊 (中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの 狙撃 を頭部に受け [注釈 17] 、数時間後に 殉職 。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。. 内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可 [注釈 18] が下りたものの、現場の混乱もあって命令が上手く伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった( 威嚇 発砲のため犯人には当たらず)。 狙撃班 も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな 狙撃銃 の使用は長官許可とされていたため [41] 、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・ 保坂調司 警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された [40] 。.
しかしその後も、犯人側は 鉄パイプ爆弾 を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が 凍死 する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は 士気 に関わるとして、部隊 指揮官 の意思を尊重する形で ヘルメット に指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。.
逮捕時、犯人側には多くの銃砲や発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、 M作戦 ( 銀行強盗 )などで収奪した75万円の 現金 が残っていた。. 事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部( 二階級特進 ・ 警視正 )と内田尚孝警視(二階級特進・ 警視長 )の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と 信越放送 の カメラマン 計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、 失明 など 後遺症 が残った者もいる。また、 坂東國男 が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。 遺書 には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。.
本事件の裁判は 山岳ベース事件 や革命左派単独の同志粛清事件である 印旛沼事件 等も含めた各メンバーが関与した事件全体に対して行われた。当初、本事件の犯人は 中等少年院 送致が決まっていた加藤弟以外の4人全員が共同の弁護団による統一 公判 で 裁判 に臨んだ。. しかし、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬やそれによる軋轢が生じたり、坂東國男の超法規的措置による釈放・国外逃亡による離脱 [注釈 24] などの事情もあり、最終的には統一公判組(坂口・ 永田洋子 ・ 植垣康博 )と分離公判組(吉野・加藤倫教)に分かれることになった。.
坂口に対しては本事件の「総指揮者」と位置付けた上で「犯行全部に共同正犯の責任を負うことは当然」とし、2人の警察官が射殺されたことだけをみても「万死に値する」とされた [33] 。統一公判組の控訴審においても坂口は「自ら主唱してかつ主導して山荘内からの徹底抗戦を打ち出し、拠点としたベッドルーム内において逐次状況を把握しつつ他の者らを指揮しかつ督励して警察官に対する殺害行為を行った者であるのに照らすと、被告人坂口は共犯者の所為によるものをも含めて厳しく責任を問われるものであ」るとされた [24] 。.
本事件に関係した被告では、坂口弘は 死刑 、吉野雅邦は 無期懲役 、加藤倫教(逮捕時19歳)は 懲役 13年 とそれぞれ判決が確定し、加藤弟(逮捕時16歳)は 中等少年院 送致 となった。なお、坂口への 最高裁判所 の判決は 年 2月19日 で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。.
あさま山荘事件
「あさま山荘事件」は、今から50年前の年2月19日に起きた。銃を携えた5人の若い男が長野県軽井沢の河合楽器の保養施設・あさま山荘に侵入、管理人 50年前. 群馬県の妙義山中に潜んだ過激派集団・連合赤軍捜索のため人の警察官を動員した群馬県警察本部と栃木、長野など関東各県警は(昭和47)年2月19日午後3時 あさま山荘事件 昭和47年2月19日、長野県軽井沢町の保養施設「あさま山荘」に過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が管理人の妻を人質に立てこもった。
あさま山荘事件.突入せよ!あさま山荘事件
あさま山荘事件または浅間山荘事件は、年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件である。 50年前. 群馬県の妙義山中に潜んだ過激派集団・連合赤軍捜索のため人の警察官を動員した群馬県警察本部と栃木、長野など関東各県警は(昭和47)年2月19日午後3時